魔法のランプの精が願いをひとつ叶えてくれるとしたら、何を願いますか?
「魔法のランプの精が願いをひとつだけ叶えてくれる」と聞いたら、たいていの人は、人生をより良くするための願いを考えるのではないだろうか。お金が欲しい。健康でいたい。好きな人と結ばれたい。世界中を旅したい。仕事で成功したい。家族が幸せでいてほしい。そんな願いが次々と浮かんでくる。
けれど、もし本当に私の前に魔法のランプが現れて、精霊が「ひとつだけ、何でも願いを叶えてあげよう」と言ったなら、私は少し違う願いをすると思う。
私が願いたいのは、「欲望に溺れた日々を送りたい」ということだ。
もちろん、これは単純に「何でも欲しいものを手に入れたい」という意味ではない。むしろ、これまで自分の中にある欲望を抑えたり、遠慮したり、「こんなことを望んではいけない」と自分自身にブレーキをかけてきた部分から、一度解放されてみたいという願いだ。
人は成長するにつれて、欲望をコントロールすることを覚えていく。
子どものころは、欲しいものがあれば「欲しい」と言う。食べたいものがあれば食べたいと言う。遊びたければ遊びたいと言う。好きな人がいれば好きだと言う。
ところが、大人になると事情が変わる。
「そんなに欲張ってはいけない」
「身の丈に合った生活をしなさい」
「我慢することも大切」
「周りの人のことを考えなさい」
「お金だけが人生じゃない」
そうやって、私たちは少しずつ自分の欲望を管理するようになる。
もちろん、それは社会で生きていくために必要なことだと思う。欲望のままに行動すれば、誰かを傷つけることもあるし、自分自身を壊してしまうこともある。
だから、普段の生活では欲望を抑える。
しかし、だからこそ、一度くらいは何の遠慮もなく、自分の欲望に身を任せる人生を経験してみたい。
もし魔法のランプが本当に存在するなら、私はその願いを叶えてもらいたい。
「もっと欲しい」と思える人生
私が欲望に溺れたいと思う理由の一つは、「もっと欲しい」と思えること自体が、生きるエネルギーになると思うからだ。
欲望という言葉には、どこか悪いイメージがある。
欲張り。
強欲。
自分勝手。
際限がない。
確かに、欲望が暴走すれば問題になる。しかし、欲望そのものが悪いわけではないと思う。
「もっと美味しいものを食べたい」
「もっといい家に住みたい」
「もっとお金を稼ぎたい」
「もっと仕事で結果を出したい」
「もっと面白い経験をしたい」
「もっと好きな人と一緒にいたい」
そういう「もっと」という気持ちが、人間を前に進ませてきたのではないだろうか。
何も欲しくない。
何も求めない。
今のままで十分。
そんな状態は、一見すると穏やかで幸せに見える。
でも、私は時々思う。
「もっと欲しい」と思える人生のほうが、案外楽しいのではないか、と。
欲しいものがあるから、頑張れる。
行きたい場所があるから、働ける。
手に入れたいものがあるから、工夫する。
認められたいから、努力する。
誰かに愛されたいから、自分を磨く。
そう考えると、欲望は人生を動かす燃料でもある。
だから私は、魔法のランプに「欲望そのものを消してほしい」とは願わない。
むしろ逆だ。
「一度、欲望を満たすことを恐れない人生を送らせてほしい」
そう願いたい。
お金に溺れてみたい
もし欲望に溺れるなら、まずはお金だろう。
正直に言えば、私は一度くらい「お金がありすぎて困る」という経験をしてみたい。
口座残高を見て、「今月大丈夫かな」と心配するのではなく、「こんなに使ってもまだあるのか」と笑ってしまうような生活。
欲しいものを見つけたときに、値段を見て諦めるのではなく、「買ってみよう」と思える生活。
旅行に行きたいと思ったら、予定を調整して飛行機に乗る。
美味しいものが食べたければ、その日に予約して食べに行く。
泊まってみたいホテルがあれば、少し贅沢な部屋を取る。
仕事で頑張った自分へのご褒美を、「今月は厳しいからやめておこう」と考えなくていい。
そんな生活を、一度くらい経験してみたい。
もちろん、お金だけが幸せを保証してくれるわけではない。
それは分かっている。
お金があっても孤独な人はいるし、お金がなくても幸せな人はいる。
それでも、お金によって選択肢が増えることは間違いない。
「できない」ではなく、「やるか、やらないか」で考えられる人生。
私はその自由に、一度溺れてみたい。
欲しいものを全部買ってみたい
欲望に溺れるなら、買い物にも溺れてみたい。
高級時計でもいい。
車でもいい。
服でもいい。
家具でもいい。
最新のスマートフォンでもいい。
ずっと欲しかったものを、ひとつずつ手に入れていく。
「これを買ったら何日食費を削らなければいけないだろう」と考えることなく、純粋に「欲しいから買う」という感覚を味わってみたい。
そして、買った瞬間の高揚感を楽しみたい。
箱を開ける瞬間。
新品の匂い。
手に取ったときの感覚。
初めて使うときのワクワク。
そういう小さな幸福を、遠慮なく積み重ねてみたい。
もちろん、物を買うことで得られる幸福には限界がある。
最初は嬉しくても、時間が経てば当たり前になる。
だから次のものが欲しくなる。
そしてまた買う。
その繰り返しは、ある意味で欲望の沼だ。
でも、だからこそ一度、その沼に思い切り飛び込んでみたい。
「これを買ったら次は何が欲しくなるんだろう」
そんな自分の欲望の限界を見てみたい。
世界中を欲望のままに旅したい
物だけではない。
私は経験にも溺れたい。
世界中を旅して、見たことのない景色を見たい。
朝起きて、「今日はどこへ行こう」と考える。
予定を詰め込みすぎず、気になった場所へ行ってみる。
美しい海があれば海を見る。
知らない街を歩きたければ歩く。
現地でしか食べられない料理があれば食べる。
偶然見つけたバーに入ってみる。
その土地の人と話してみる。
有名な観光地だけではなく、何でもない路地裏まで歩いてみる。
そんな旅をしてみたい。
そして、「明日も仕事だから帰らなければ」と時計を見るのではなく、「もう少しここにいたい」と思ったら、そのまま滞在する。
人生には限りがある。
だからこそ、本当はもっと多くの景色を見てみたい。
もっと多くの人に会いたい。
もっと多くの経験をしたい。
欲望に溺れるということは、もしかすると「人生をもっと味わいたい」ということなのかもしれない。
成功にも溺れてみたい
そして、私は成功欲にも溺れてみたい。
「自分はどこまで行けるのか」
それを確かめてみたい。
仕事で大きな成果を出して、周囲から認められる。
自分が関わった仕事が世の中に広がる。
「この人に任せれば大丈夫」と言われる。
自分の名前や仕事を知っている人が増える。
そんな状態を経験してみたい。
成功した人を見ると、「そこまで頑張らなくてもいいのでは」と思うこともある。
でも、本人にとっては、その「もっと上へ行きたい」という欲望が楽しいのだと思う。
昨日の自分より今日の自分。
今日の自分より明日の自分。
そうやって、自分自身を更新していく。
それは苦しいことでもあるけれど、同時にものすごく刺激的なことでもある。
だから私は、成功に対しても遠慮したくない。
「そこそこできればいい」ではなく、「できるところまでやってみたい」。
そういう欲望を持って生きてみたい。
愛にも溺れてみたい
そして、おそらく一番深い欲望は「愛」なのだと思う。
誰かに必要とされたい。
誰かに大切にされたい。
好きな人と一緒にいたい。
会いたいと思ったときに会いたい。
嬉しいことがあったら、一番に伝えたい。
疲れたときには、一緒にいてほしい。
そんな関係に溺れてみたい。
大人になると、恋愛にも計算が入る。
忙しいから。
タイミングが悪いから。
相手に迷惑かもしれないから。
重いと思われるかもしれないから。
そんなことを考えて、自分の気持ちを抑える。
でも、本当はもっと単純なのかもしれない。
好きなら好き。
会いたいなら会いたい。
大切なら大切。
それだけでいい。
もちろん相手の気持ちや自由を尊重することは大前提だ。
それでも、自分の感情まで否定する必要はない。
愛されたいという欲望も、誰かを愛したいという欲望も、人間らしいものだと思う。
だから、そこから逃げずに生きてみたい。
欲望の先に何があるのか
ただ、私が本当に知りたいのは、欲望を満たした「その先」だ。
お金がいくらでもある。
欲しいものは全部持っている。
行きたい場所には全部行った。
仕事でも成功した。
多くの人に認められている。
好きな人にも愛されている。
もしそんな状態になったら、自分は何を欲しがるのだろう。
それが知りたい。
人間の欲望には、おそらく終わりがない。
一つ手に入れれば、次が欲しくなる。
年収が上がれば、もっと上を目指したくなる。
大きな家を買えば、もっといい家が欲しくなる。
有名になれば、もっと多くの人に知られたくなる。
愛されれば、もっと深く愛されたいと思う。
だから、欲望を満たし続ける人生は、永遠に満足できない人生でもある。
それでもいいと思う。
なぜなら、完全な満足が人生の目的とは限らないからだ。
「まだ欲しい」と思える。
「もっとやりたい」と思える。
「次は何をしよう」と考えられる。
そんな状態こそ、生きている実感なのかもしれない。
最後には「普通」に戻るかもしれない
そして、もし魔法のランプの精が願いを叶えてくれたとしても、私は永遠に欲望の奴隷でいたいわけではない。
むしろ、思い切り欲望に溺れたあとで、初めて分かることがあると思う。
何でも買えるようになったからこそ、本当に欲しいものが分かる。
どこへでも行けるようになったからこそ、帰りたい場所が分かる。
誰からでも認められるようになったからこそ、本当に大切な人の言葉が分かる。
何でも手に入るようになったからこそ、手に入らないものの価値に気づく。
そう考えると、欲望に溺れることは、必ずしも欲深い人生ではない。
むしろ、自分が何を本当に求めているのかを知るための旅なのかもしれない。
最終的には、豪華な生活ではなく、普通の夕食を幸せだと思うかもしれない。
高級車ではなく、気の合う人とドライブする時間を大切にするかもしれない。
高級ホテルではなく、自分の家のベッドが一番落ち着くと思うかもしれない。
そして、たくさんのものを手に入れた結果、最後に残る願いが「大切な人と普通に笑っていたい」だったら、それも面白いと思う。
私が魔法のランプに願うこと
だから、もし本当に魔法のランプを見つけたら、私はこう言う。
「私を欲望に溺れさせてください」
お金も欲しい。
成功も欲しい。
美味しいものも食べたい。
欲しいものも買いたい。
行きたい場所にも行きたい。
面白い経験もしたい。
好きな人には愛されたい。
仕事でも結果を出したい。
そして、もっともっと「生きたい」と思える毎日を送りたい。
遠慮せずに欲しがって、思い切り挑戦して、失敗して、また欲しくなって、また挑戦する。
そんな人生を一度くらい送ってみたい。
もちろん、欲望には危険もある。
人を傷つける欲望や、誰かから奪うことでしか成立しない欲望は、自由とは違う。
だから私が願う「欲望に溺れる」は、自分も他人も壊さずに、自分の人生を思い切り欲張るということだ。
「もっと楽しく生きたい」
「もっといろんなことを経験したい」
「もっと大きなことをやってみたい」
「もっと愛したい」
「もっと愛されたい」
「もっと笑いたい」
そんな欲望を、もう少し素直に認めてみたい。
人生は一度しかない。
だったら、「欲がない人間になりたい」と願うより、「欲しいものを欲しいと言える人間になりたい」と願いたい。
魔法のランプの精が目の前に現れて、「本当にそれでいいのか?」と聞いてきたとしても、私はきっと答える。
「それでいい。むしろ、それがいい」
そして、ランプから煙が立ち上り、願いが叶った瞬間から、私はきっと次の欲望を探し始める。
次は何が欲しい。
次はどこへ行きたい。
次は何をやりたい。
次は誰と笑いたい。
そうやって、欲望に追いかけられながら、欲望を追いかけながら生きていく。
それでいい。
いつか人生の最後の日が来たときに、「もっと欲しかった」と後悔するくらいなら、私は一度くらい、欲望に溺れてみたい。
そして最後には、
「いやあ、欲張って生きたな」
と笑って終われる人生がいい。
私が魔法のランプに願うたった一つの願い。
それは、欲望を恐れず、人生を欲張って生きることだ。

















































































